いま慰安婦とアメリカ

古森義久

産経新聞ワシントン駐在客員特派員

日本戦略研究フォーラム季報 Vol.68 2016年4月

はじめに

日本と韓国との間の障害だった慰安婦問題はいまどうなったのか。2015年末に両国外相による慰安婦問題での「最終合意」が成立したことがその後の両国関係をどう変えるのか、或いは変えないのか。更には日韓両国にとって特別の重みを持つアメリカの反応はどうなのか―。2015年12月28日に発表されたこの外相合意は日韓両国間で長年、摩擦の原因となってきた慰安婦問題が「最終的かつ不可逆的に解決される」と宣言していた。だから日韓関係の長い歴史でもその言葉の意味する限りでは画期的な合意だといえよう。その合意成立からちょうど2ヵ月、前記のような諸点の状況を2016年2月末の時点で報告しよう。この報告では視座を筆者の駐在するアメリカの首都ワシントンに置くことにする。

このアプローチは単に筆者がワシントンで報道や評論の活動をするからというだけでなく、アメリカの反応や認識が特に重要だという点で合理性があるといえる。超大国アメリカの反応は国際社会全体の反応を測る際の最有力の指針となる。その上アメリカは、日本と韓国両方にとって最重要の同盟国である。

更には日本と韓国が昨年末の合意を纏めるにあたり、その最大の推進役となったのがアメリカだった。オバマ政権は日韓両国が慰安婦問題での対立を解消し、安全保障面で共同歩調をとることを強く望んでいた。

朴槿恵大統領は安倍晋三首相との首脳会談について「日本側がまず慰安婦問題で誠意のある措置をとる」という前提条件を就任当初から大きく振りかざしていた。3年半後にその条件を引っ込めて会談に応じたのも、オバマ政権からの圧力が大きな要因だった。昨年末の日韓合意もオバマ政権が強く望み、特に硬直な韓国側の姿勢を軟化させた結果だといえる。

ではまずアメリカ側の反応を見ていこう。但しアメリカといっても多様である。ここでは第1にアメリカの政府と議会、第2にニュースメディア、第3にアメリカ側の活動家や学者、第4にアメリカ国民一般、と4つの分野に分けて報告しよう。

米政府と議会の反応

オバマ政権の日韓合意への反応は極めて敏速だった。もろ手を挙げての歓迎である。

ジョン・ケリー国務長官は同合意の発表後すぐに「アメリカにとって最重要な同盟国二国の関係改善に資する動きとして歓迎する」とする声明を出した。「日韓両国の指導者の勇気と先見を賞賛する」とも言明した。この種の合意をまさに求めてきたオバマ政権だからごく当然の反応だった。

アメリカ議会でも大多数は歓迎だった。上下両院の多くの議員たちにとって真剣な関心の対象にはなっていない慰安婦問題だが、日韓両国関係のあり方には多くの注視が集まる。その関係の改善に繋がる動きを議会の大多数が前向きに受け止めるのは自然である。

だから上院で多数を占める共和党の重鎮、ジョン・マケイン軍事委員長が「この合意は日韓関係の新時代到来を告げる」という歓迎の意を表明したのは象徴的だった。慰安婦問題その他、一連の歴史認識関連の案件では日本側に批判的だった中国系のジュディ・チュー下院議員(民主党)も同合意への賛意を述べた。但し「日本の歴史的な間違いへの歴史的な謝罪だ」という特徴づけだった。

アメリカ議会全体でもほぼ唯一、同合意自体への「失望」を表明したのは年来の慰安婦問題での日本叩きで知られるマイク・ホンダ下院議員(民主党)だった。「今回の合意には日本側が歴史を糊塗せず、次世代の日本人に正しい歴史を教えることを誓っていない点で深く失望した。この声明が日本の国会の承認を得ていない点にも失望した」というのである。

だがこの反応はいわば予想通りだった。ホンダ議員は韓国系よりも中国系組織の意を汲んで長年、日本を糾弾してきたからだ。同議員は中国政府と密着し、カリフォルニアに本部を置く「世界抗日戦争史実維護連合会」の全面支援を得て、下院での慰安婦問題での日本糾弾決議の採択に奔走したのだ。だからこの組織がホンダ議員を利用して慰安婦問題で日本を攻撃する可能性はまだまだ残っているのである。いわば日韓関係の外側にある要因なのだ。

米ニュースメディアの反応

アメリカのニュースメディアも今回の合意を全体としては前向きに評価していた。

ウォールストリート・ジャーナル、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、NBCテレビなどという大手メディアは皆「日韓両国リーダーによる長年の慰安婦問題の解決努力は北朝鮮の核兵器開発などアジアの安全保障の課題への共同対処を可能にし、アメリカの国益にも寄与する」(ウォールストリート・ジャーナル記事)という趣旨の報道だった。

但し米側メディアの記事では慰安婦問題自体をなお「日本軍が20万の女性を強制連行して性的奴隷にした」(ニューヨーク・タイムズ社説)と特徴づける記述が殆どだった。

「日本帝国陸軍が第二次大戦中に多数の朝鮮人女性を含む数万の女性を強制徴用して性的奴隷とし軍事売春宿で働かせた問題」(ウォールストリート・ジャーナル記事)

「戦時中に日本帝国の軍隊により強制され性的奴隷として働かされた女性たちを指す『慰安婦』という言葉」(ワシントン・ポスト記事)

以上のような記述がアメリカ側の主要メディアの殆どに共通していたのだ。中には「20万人の慰安婦」という表現もあった。

言うまでもなく「日本軍による強制連行」も「性的奴隷」も「20万人」も、みな事実に反する非難なのだ。だが今回の日韓外相合意を報道した米側メディアは合意自体を歓迎しながらも、皆その種の年来の虚構の主張を依然、表に出していたのである。

アメリカのメディアは日本側が今回の合意で韓国側のそうした主張を認めた上で謝罪したかのような報道さえしていたのだ。

この点は日本にとって重大である。既に虚構であることが証されたこの種の非難がなお国際的に横行しているという現実の再確認になってしまったのだ。

日韓合意では日本側は韓国側の年来の「20万女性の強制連行」とか「女子挺身隊の名の下での慰安婦」という虚偽の主張を敢て否定はしなかった。合意にはその種の虚偽の主張は入ってもいなかった。だが合意文での日本側の言明は慰安婦問題への「軍の関与」や「日本政府の責任」を明記していた。総理大臣の「心からのお詫びと反省」を表明し、「日本政府の予算からの元慰安婦たちへの癒しの資金」の提供を約束していた。

アメリカのメディアの多くは日本側のその種の謝罪の措置が「強制連行」や「性的奴隷」を認めた上での対応であるかのように報道したのである。

だからこの日韓合意は日本側の事実関係での正当な主張の機会を封じてしまう危険を示したといえる。この点で日本外務省の杉山晋輔外務審議官が2月16日に国連の委員会で慰安婦問題について「強制連行」や「性的奴隷」を否定する演説をしたことは、これまでの外務省の対応とは異なり、極めて適切だった。

米の活動家や学者の反応

慰安婦問題についてはアメリカでは長年、特定少数の活動家や学者が韓国や中国と連帯する形で日本に対する一方的な糾弾を続けてきた。アメリカでの慰安婦問題では日本にとって最も激しい非難を浴びせる反日ハードコア(核心)とも呼べる勢力である。

だが今回の日韓外相合意はこの勢力にも微妙ながら含蓄のある影響を及ぼしたといえる。彼らの活動を抑える効果が窺われたのだ。

その最初の事例はワシントンでのアジア問題専門のネット・ニュースレター「ネルソン・リポート」の変化である。主宰者のクリス・ネルソン氏は民主党リベラル派で日本の歴史問題では中韓両国側の主張を支持してきた。だから日本側、特に安倍首相への批判が年来、強かった。その意味ではネルソン氏は活動家だと呼べる。

彼のネット・ニュースレターの論壇に投稿、寄稿する米側の専門家たちも歴史問題については日本を非難する人たちが圧倒的に多かった。だが今回はネルソン氏自身が同論壇の編集者として日韓合意に賛同し、賞賛までしていた。関係者たちからの投稿、寄稿も合意歓迎の意見を多く紹介していた。そして慰安婦問題で日本を長年、糾弾してきた米側の女性活動家ミンディ・カトラー氏が同合意を非難したことに対し「日本が何をしても絶対に認めないという態度は変えたほうがよい」と辛辣に批判したのだ。明らかな変化だった。

二番目の事例はアメリカ学界の慰安婦問題での日本叩き最強硬派活動家、コネチカット大学のアレクシス・ダデン教授の態度である。このダデン氏は20年以上も歴史問題で韓国側と密着し、日本を責めてきた。東京での女性国際戦犯模擬裁判での慰安婦問題非難で昭和天皇を有罪とし、ワシントンでの下院本会議の慰安婦問題での日本糾弾決議の採択を実現させた。最近では日本の憲法第九条にノーベル平和賞を与えようという運動を韓国内に向けてアピールしている。

韓国政府からも助言を求められるそのダデン氏が1月11日のワシントンでの日韓歴史問題に関するシンポジウムで、今回の日韓合意を北朝鮮の核武装のような安保案件に日韓両国が連帯して対処する上で好ましいと評価したのだ。ダデン氏は慰安婦問題自体については依然、

「日本軍の強制連行による国家犯罪」というような表現で日本側だけを非難した。だが日韓合意の前向き評価というのはこれまでの同氏の全面的な反日姿勢からは大きな変化だといえよう。その上にこのダデン氏が登場した前述のシンポジウム自体も従来よりはバランスのある会合となっていた。主催したウッドローウィルソン国際学術センターはこのシンポジウムに慰安婦に関する書『帝国の慰安婦』の著者の朴裕河・世宗大学教授を招いていたのだ。朴教授は同書で「慰安婦は日本軍人の同志だった」とか「朝鮮半島での日本軍による強制連行はなかった」と書き、韓国当局から元慰安婦たちへの名誉毀損罪で起訴された韓国人の女性学者である。アメリカ議会とも関係の深い同国際学術センターがこうした客観的な見解の韓国人学者をワシントンでの慰安婦問題の会議に招くこと自体、流れの微妙な変化の兆しとも受け取れた。ワシントンでの慰安婦問題の集いといえば、これまでは「強制連行された性的奴隷」説一色の日本叩きだったのだ。朴教授は特に日本を弁護もしていないが、その主張はダデン氏から非難されたほど「異色」、つまり客観的だった。

但しカトラー氏はなおこの3月上旬にワシントンで従来の日本糾弾のスタンスに基づく慰安婦問題のシンポジウムを組織した。米側の大学の一部と共催の形をとっての催しで、オランダのジャーナリストとかオーストラリアの学者など、これまで慰安婦問題で発言してきたアメリカの主要な大学や研究機関の専門家とはかなり異なる顔ぶれを動員していた。やはりこれまでよりは数歩は後退したという印象なのだ。

アメリカ国民一般の反応

まず総括するならば、日本と韓国の間の慰安婦問題論議に対するアメリカの一般国民の関心というのは微少だといえる。そもそもこの種の外国の歴史問題は、たとえそこにアメリカのなんらかの関与があっても、平均的なアメリカ人が興味や知識を持つことは稀である。

2007年にはアメリカ議会下院本会議が慰安婦問題で日本を責める決議案を採択したが、このときもアメリカ側一般には影響はなかった。まずアメリカのニュースメディアが全米レベルでは全く報道しなかった。日本では大ニュースとして報じられたが、肝心のアメリカでは報道なしに等しかった。これほどのギャップをまず認識するべきである。

だが今回の日韓合意は前述のようにアメリカの主要ニュースメディアにより簡単ではあるが一応は報道された。だから一般米国民もいくらかの認識はあるといえる。しかしそれ以上の継続的な関心は少ない。但しその報道は前述のように「日本軍が強制連行した性的奴隷としての慰安婦」という趣旨だから、その誤認が一般米国民の間でもある程度、広がったとはいえるだろう。

アメリカの草の根レベルでこの慰安婦問題に直接の反応をみせるのは、韓国系アメリカ人であり、その韓国系住民の多い地域である。具体的には西部のカリフォルニア州、東部のニューヨーク、ニュージャージー両州と首都ワシントンに隣接する南部のバージニア州などが挙げられる。韓国系住民は全米合計170万ほど、全

人口の0.5%ほどである。だがそれでもまとまって特定の連邦議員に働きかければ、議会への影響を及ぼすことも可能ではある。

その韓国系アメリカ人たちの今回の日韓外相合意への動向をみると、一部には激しい反対も存在した。

1月下旬には一部の韓国系米国人が「慰安婦のための韓国系アメリカ人市民団体」と名乗り、ロサンゼルスの国務省事務所に抗議デモをかけた。今回の日韓合意に反対し、アメリカ側の責任官庁の国務省への抗議を表明する数十人の集団だった。

この集団は国務省のアントニー・ブリンケン国務副長官に特に非難の的をしぼり、同副長官の解任をオバマ政権に求める署名集めまで試みていた。同副長官が日本側につき、韓国側に冷たくしたとして、その結果が日韓合意なのだと文句を述べるのだ。

但しこの動きは全米的には微少な韓国系コミュニティーの内部でも更にまた一部の人たちの活動だった。その後、この種の動きが広がりをみせた気配はない。

各地の韓国系住民の集中地域で進む慰安婦の像や碑の建設もそのままのようだ。だが韓国の本国政府が慰安婦問題でのこれ以上の日本叩きをしないという公式言明をしたのだから、その像や碑の建設に拍車がかかることもないようである。寧ろ抑制された方向へと進むと思われる。

結語

以上が慰安婦問題についての日韓合意へのアメリカの反応である。その反応は詳述してきたように決して一概に直線的でも、前向きでもないが、大枠としては米韓日の三国関係において慰安婦問題が占めてきた負の要因を減らす方向へ動く情勢をみせ始めたとはいえよう。

この点では年明け早々からの北朝鮮の好戦的な活動も期せずして大きなプラスとなった。核武装のための核爆発実験、そして長距離弾道ミサイル開発のための発射実験は韓国と日本に共通の脅威を突きつけた。その結果、日韓両国が同盟国のアメリカとともに共通の認識や対応をみせ始めた。

これまでならこのような事態で必ず障害となってきた慰安婦問題は日韓両政府間のレベルでは大きく後退したことが期せずして印象づけられた。安全保障のためには歴史問題は脇におくという常識にも近い基本認識が実践され始めたのだともいえよう。

だから日韓外相声明が日本にとっての対韓関係を実利的な意味でのよりよい方向へ変え始めたともいえるのである。この傾向はアメリカにとっても歓迎すべき流れである。東アジア情勢では安全保障に最大の関心を向けるアメリカにとって増大する中国の脅威、そして挑戦的な姿勢を強める北朝鮮の脅威への効果的な対応には日本と韓国の連帯が不可欠な要素だからだ。

日本と韓国の二国間に限ってみれば、楽観を許さない材料も少なくない。

韓国の一部の民間や野党勢力が慰安婦問題での解決を拒む態度はもう明らかとなった。日本側も「日本政府の責任」や「安倍晋三首相の心からのお詫び」を表明したことが前述のように、禍根を残す恐れもある。ソウルの日本大使館前の慰安婦像の撤去も見通しは立たない。

しかし、たとえ韓国側でこの合意への反対がなお燃え上がり、慰安婦問題での従来の日本非難が続いたとしても、日本側としては今回の合意を踏まえ、「韓国政府は最終的かつ不可逆的な解決を誓ったではないか」と、反論すればよいのである。同声明は国家としての韓国がもうこの問題で日本に文句をつけてくることはしない、という宣言と受け取れるからだ。日本側は道義的、倫理的に韓国側よりも高い地位に立って韓国の時の政府や大統領を批判できるのだといえよう。

そしてこれまで報告してきたアメリカ側の反応は、アメリカ自体もまた日本にとって有利なその外交構図を結果として認知し、支援していることを示すといえよう。この意味でも今回の日韓合意は、日本にとって大きな外交的成果だといえるだろう。