【3点セット】韓国の慰安婦事情 1945~2015

正論 2015年8月号

秦郁彦

タブーが破られる日

五月二日の韓国中央日報の社説は、「韓国はまかり間違えば、周辺国からのけ者にされる立場に置かれている」と警鐘を鳴らした。左派のハンギョレ新聞も、六日の社説で「無力な韓国外交、人と戦略すべてを変えなければならない」と論じた。こうしたメディアの政権批判を無視できなかったのか、慰安婦をはじめ歴史問題が解決しないかぎり首脳会談には応じないとして「千年の恨」を公言し、硬直した姿勢を崩さなかった朴槿恵大統領も軟化のきざしを見せた。歴史問題と安保・経済問題は切り離して対応するという「2トラック戦略」を表明したが、すぐに急反転する。韓国国会は安倍首相を名指しで非難する決議を採択(五月二日)、大統領もみずからユネスコの事務総長へ、内定していた明治期日本の産業革命遺産の世界遺産登録に反対する意向を直訴した(五月二十日)。 極めつけは韓国のネットメディア「デイリージャーナル」のコラムニストが、「機会があれば日本皇室の佳子姫を慰安婦にするしかない」(五月十五日)と放言した事件だろう。 すでに「放っておけ」の気分に傾いていた日本の対韓世論は「またか」の思いで冷然と受けとめた感がある。こうした状況でもっとも当惑したのは日米韓の同盟強化で東アジアのリバランス(再均衡)を確立しようと、日韓の橋渡しに腐心してきたアメリカなのかもしれない。 それにしても、常軌を逸したかのような韓国の反日気分の高揚ぶりをどう理解したらよいのか、思案しているうちに気づいたことがある。 日米、米韓のコミュニケーションは英語を媒介に何とか機能しているようだが、韓国人の日本語使い、日本人の韓国語使いはきわめて少数で、ニュースや論説は、大新聞や通信社の特派員が拾ってくる二次的情報に限られ、多層的な知的交流の場に恵まれていないことだ。 それを象徴する事実に気づいた。韓国の三大新聞(朝鮮日報、東亜日報、中央日報)がいずれも日本語版を発行し、国立国会図書館の新聞閲覧室は欧米の主要新聞をそろえているのに、三大新聞の日本語版は置いていないのである。 だがそれを補完する情報チャンネルもないわけではない。ネットで三大新聞の日本語版を検索してみると、意外にも政治、経済、社会面の記事から論説、コラムまでが溢れるほど並んでいて、日本の新聞、雑誌で見かけない情報も混ざっている。最初に遭遇したのは、慰安婦がらみの話題だった。次にその一例を引用したい。 「日本の謝罪を必ず…慰安婦被害者の息子、娘が約束」 故チェ・ソンスン(一九二一~二〇一三)は日本軍の慰安婦被害者。十六歳の時、日本軍に連行されたが六十年以上も隠してきた。家族は亡くなる三年前に息子の嫁が偶然に知ったという。 「認知症の姑がある日、生活補助金が入金される通帳を見せながら、私が慰安婦として連行されたのに国が与えるお金だ」と話したので知った。 孫のワン・ミンホ(三七)は、祖母の葬儀場に朴槿恵大統領の弔花があり、事実を知ったが、長く隠してきたことを思うと胸が痛むと述べた(中央日報、二〇一五年三月二日)。 間伸びした要領を得ない筆致だが、日本の新聞もかつては似た調子で慰安婦の身の上話を報じていたなあと思いながら、隣りあう記事に目をやると、より刺激的な記事が飛び込んできた。重要情報かと思われるので、やはり要旨を紹介する。 日本軍慰安婦被害者の家族十四人が被害者遺族会を結成した。二月二十八日にナヌムの家で公式の発会式を開催、謝罪の一言も聞かず亡くなったのが無念で子どもたちが立ち上がったのである。生存者の五十三人も参加する。これまで遺族が出てくることはなかった。遺族会は今後、日本の公式謝罪と法的賠償を要求することになろう。 どうやら大統領の弔花ぐらいですまず、慰安婦の遺族とエンドレスに向き合わねばならぬのかと思えば、うんざりしてくるが、日本の新聞はこの重要ニュースを見逃してしまったようだ。遠からず、我が国の親韓慰安婦派がとりあげて、支援活動を始めるかもしれない。 ここでもう少し検索してみると、他にも慰安婦がらみの奇抜な話題がぞろぞろと出てくる。たとえば、「外交部は慰安婦資料をユネスコの世界遺産に登録する運動を推進したいが、慰安婦追悼記念日の制定をと主張する国会議員の提案には反対だ」(CBSニュース、五月八日)とか「韓国の女性弁護士会が、生存している五十三人の元慰安婦をノーベル平和賞候補に推す」(世界日報、四月二十九日)のたぐいである。 欧米のメディアも概してこの種の韓国情報には冷淡だが、例外もある。二〇〇七年に米下院で証言した前歴のある元慰安婦の李容洙(八六)が韓国系米国人組織による安倍首相の訪米阻止運動に動員され、渡米してきたのをワシントンポスト紙がインタビューした記事(同、四月二十三日)が見つかった。 本人やローマ法王からもらったという十字架の写真も添え、一ページの全面をカバーしたキャンペーン記事だが、中味がひどく薄い。 彼女の慰安婦歴も、農家で育って十四歳の時、寝ている最中に踏みこんできた日本兵に連行され、特攻隊基地で強制売春させられたという、年代も場所もさだかでない、雲をつかむような身の上話で終わっている。「死ぬ前に安倍に謝罪させる」という彼女の決めぜりふを引き出すのが、取材記者の狙いだったのだろう。 しかし慰安婦問題で韓国メディアが饒舌と攻撃性を発揮するのは、「加害者」が日本国や日本軍、「被害者」が韓国人女性の場合に限られてきた。予感がなかったわけではなかろうが、永年の身勝手なタブーが破られる日が来た。単純化すれば「加害者」は韓国政府と韓国軍、「被害者」が韓国人やベトナム人などのアジア人女性という構図を指す。

122人の米軍慰安婦

百二十二人の元米軍慰安婦たちが、強制連行、強制売春させられたとして、謝罪と賠償を求め韓国政府を提訴したのは二〇一四年六月二十五日である。朴正煕大統領の直轄事業だったことを示す大統領の署名文書も訴状に添えられていた。 一九九二年に日本軍慰安婦第一号の金学順らが東京地裁へ提訴した時の原告数は三人(のち三人を追加)、その後の訴訟でも数人にすぎなかったから、百二十二人の原告団は類例を見ない規模である。ニュース価値は絶大と思われるのに、韓国の三大新聞は、記者会見もあったのに一行も報道しなかった。現時点でも事情は変わらない。政府が報道禁止を命じた形跡はないので、暗黙の自主規制としか考えられない。 日本では産経、毎日、読売が翌日付、朝日は二十八日付で短く報じ、いくつかの週刊誌(週刊文春、週刊新潮、Flash等)も数日後に後追い記事を出すが、韓国政府の情報管制が厳しく、原告団に接近できないため、第二報は一年後の現時点まで出ていない。訴状の全文は日本の外務省さえ、まだ入手できないままである。 韓国のメディアで第一報を伝えたのは聯合ニュースと左派系の京郷新聞だけと判明したので、私は三大新聞のうち一社の東京支局へ連絡して、京郷新聞を入手することができた。そのさい、日本語訳まで添付してくれたのは、社の不掲載方針にあきたらぬ記者の個人的行為かと思う。 少しおくれたが、カバーストーリーの形で詳報を伝えたのは、七月五日付のハンギョレ新聞である。記事は、ソウルの女性プラザで開かれた記者会見における原告側弁護団長の「政府は朝鮮戦争以後、基地村を作り事実上管理して女性の人権を侵害しました。売春禁止法は紙屑同然でした。性暴行と殴打、監禁、強制堕胎、性病の強制検診と治療、性売買、業者主人と警察のゆ着不正で数えあげるのも、難しい国家犯罪でありました」 という挨拶を伝えた。 引き続き基地村の「慰安婦」だった六十~八十代の原告女性四人がかわるがわる身の上を語った。一部を抜き出してみよう。 A女「幼い頃の私の夢は国会議員でした。しかし人身売買で基地村に売られたので、夢は水の泡と消え去りました。私たちはドルを稼ぐ機械でした。今は貧困と病魔に苦しみながら暮らしています」(あちこちで泣き声、国は謝罪しろの声) B女(七十五歳)「父になぐられ売られ、四十二歳まで基地村で体を売っていた。体はボロボロ、生活保護と老齢年金で住む部屋は四坪ばかり、家主から追い立てを食っている。老いた体をゆっくり横たえられる小さな家を国が用意してほしい」 C女(六十三歳)「十八歳の時、職業紹介所から米軍クラブの仕事を紹介されたが『基地村へ来たことを後悔しない』という誓約書を書かされた。辞めたいと言うと、警察とグルになっている抱え主にひどくなぐられた。今はクラブのウエイトレスで小金を稼いでいます」 D女「率直に言ってこの国が憎い。なぜ米軍の言いなりなのか。テレビで見かける日本軍慰安婦は応援団がつき、お金も十分にもらっているようだ。政府に使い捨てられた私たちも、同等の被害者として処遇してもらいたい。私の十六歳の花のように美しい時間をどうしてくれるんです」 「筆舌につくしがたい苦難」と形容されてきた日本軍慰安婦の身の上話とそっくりの哀話だが、ハンギョレ新聞を除いて彼女たちの訴えは、韓国メディアにはほぼ黙殺されてしまう。政府はノーコメントで押し通し、弁護団は訴状を公開せず、原告女性の取材にも応じなかった。 欧米メディアも近づけず、情報不足のなかで加藤達也(産経新聞ソウル支局長)が月刊『正論』の二〇一四年九月号(八月一日発売)に「性搾取大韓民国の不都合なる真実」の標題で公表したレポートは、久しく韓国内でくすぶっていたこの問題の全体像をさかのぼって追及する力作であった。 加藤は政府が沈黙している理由について、ある国会議員スタッフから「この問題を突き詰めると朴正煕大統領(一九六二~七九年在任)の責任論につながり、ひいては娘である朴槿恵大統領の政権の正統性にもかかわる問題なのです。騒げば、韓国社会がかつて様々な事情から売春せざるを得なかった女性に米軍兵士の性欲処理を押しつけて、切り捨てていたという事実が表面化してしまうからだ」との感想を引きだした。 さらに加藤は、歴代政権が「米軍慰安婦」の役割を知っていたし、「ドルを稼ぐ英雄」としておだててもいること、この問題がすでに二〇一二年十月、野党議員によって提起され、翌年十一月に、やはり国会の論戦で野党議員が大統領記録館から入手した「基地村浄化対策」(一九七七年五月二日付)という当時の朴大統領が直筆で署名している文書を示して、追及した事実も明らかにした。 この文書には「米軍慰安婦」が居住していた基地村が六十二カ所あり、売春していた女性が九千九百三十五人いたことが記載され、百二十二人の原告団はそれを訴状に添付していた。決め手となる証拠で、日本軍慰安婦問題の解決を最優先課題にかかげていた朴大統領が受けた衝撃は計り知れない。 加藤支局長は二〇一四年八月五日に告発され、七日に出国禁止の処分を受け、十月八日に在宅起訴された。表面はフェリー沈没事故の当日における大統領の動静が不明だったことに関し、韓国メディアに流れていた噂を八月三日の産経ウェブサイトに紹介したのが理由とされた。 だが筆者はタイミングから見て、米軍慰安婦問題についての継続取材を阻止するのが狙いだったのではないかと推測する。 二つの裁判は平行して進んだ。初公判は加藤支局長が十一月二十七日、米軍慰安婦が十二月十九日だったが、前者は出国禁止が解けた加藤が二〇一五年四月に帰国したのちもつづいている。後者は一月三十日に次回公判があると予告されたあと、裁判が継続されているかどうかも不明のまま、関連情報はとだえたままである。 第一回公判の状況に関しても、聯合通信(十二月二十二日)と米軍新聞(十二月二十六日)は原告団を支援する四団体が「基地村では現在も、フィリピン人やロシア人などの外国人女性が人身売買されている。実態を解明せよ」と記者会見で述べたこと、政府側弁護人が「国家賠償が成りたつには、百二十二人が具体的にどんな被害を受けたか、一人ずつ立証する必要がある」という主旨の答弁書を提出したと報じた程度で終わる。 当初は裁判所が門前払いにするのではないかとの観測もあったが、かろうじて裁判が成立したのは、支援四団体(韓国女性団体連合、挺対協基地村女性人権連帯等)が強力な圧力団体のため、無視しにくいとの判断かららしい。 日本軍慰安婦問題の急先鋒でありつづけた挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)がなぜ米軍や韓国軍慰安婦問題にも介入するのか、理解しかねる人もいよう。だが韓国の治安当局は以前から挺対協は北朝鮮の利益を代弁する「親北団体」とみなし、監視対象にしてきた。 現代表(尹美香)の夫とその妹も北朝鮮のスパイとして一九九三年に逮捕され、有罪判決を受けた前歴がある。したがって挺対協を筆頭とする支援組織が、反日と反米を兼ねていても不思議はないともいえる。

基地村の洋公主

韓国社会でくすぶっているのは、米軍慰安婦問題だけではない。ひとつは二〇〇二年に金貴玉(慶南大学ついで漢城大学副教授)が最初に発表した韓国軍の専用慰安婦と慰安所の存在である。 もうひとつは二〇一五年に山口敬之(TBSワシントン支局長)が米軍の公文書に依拠して、ベトナム戦争中に韓国軍がベトナム人女性を集めた慰安所をサイゴンで運営していたという新事実の発見だ。 いずれも直接の「被害者」が名乗り出た例がなかったこともあり、全容の解明は容易ではないが、この機会に情報の蓄積が多い米軍用慰安婦を軸に、三点セットとして取り上げたい。それは第二次世界大戦後における朝鮮半島と大韓民国における売春事情の歴史をたどることでもある。時期区分すると朝鮮戦争前後(一九四五~)、基地村全盛期(一九五四~)、基地村浄化期(一九七一~)、遠征売春期(一九九七~)となるが、ここでは主要な争点別に観察する手法をとる。 ①法的規制の表裏 米軍は建前として全軍規模で売春婦の利用を禁じていたが、実際には黙認していた。軍政を施行していた時期の一九四六年五月、ホッジ司令官は婦女子売買の禁止令を発し、四七年十一月には公娼廃止令を公布した(1)。ところが性病検査を強制できなくなるため、接客婦やダンサーを名のる私娼が増加し、性病罹患率が上昇するというジレンマに直面する。 大韓民国の独立(四八年五月)により、一時撤退した米軍は、朝鮮戦争の勃発(五〇年六月)により復帰し、五三年に休戦となった後もひきつづき在韓米軍として駐留をつづけたが、最大の関心事のひとつは性病対策だった。ここで売春禁止の建前に縛られた米軍は、性病管理を韓国政府に押しつける形で「性病のない・清潔・な女性が売春することは黙認する」(2)巧妙な制度が生まれた。 そして朝鮮戦争中の五一年五月から次々に米(国連)軍向けの専用慰安所(レクリエーション・センター)が設置され、のちに基地村へと発展していく。そこで働く女性たちは「UN慰安婦」、「洋公主」(Western Princess)、「特殊業態婦」などと呼ばれた。 一九六一年に韓国は性売買を禁じる「淪落行為等防止法」を制定したが、その一方で基地村をふくむ「政府公認の売春特区」(百四カ所から百四十五カ所へ)を設けた。 同時に外貨獲得を目的とする「観光産業振興法」を公布し、米兵ばかりでなく、「キーセン観光」の日本人も歓迎した。一説だと性産業の収入はGNPの25%(キャサリン・ムン)にも達したとされる。 九〇年代以降の民主化の進展、女性運動の活性化を背景に二〇〇四年、新たな性売買特別法が制定されるが、法施行直後には特区の女性たちによる大規模な反対デモが起きた。山下英愛は「まさに性奴隷状態」に置かれていた売春女性の惨状にようやく気づいた女性運動にとって「大きなチャレンジ」(3)と評した。しかし経済的に豊かになるにつれ、韓国人男性たちは日本人男性と同様に海外へ買春に出かけ、経済格差が広がるなかで貧困化する女性たちは、国内外の性売買関連業に進出をつづけている。山下はさらに「途上国の女性たちが、商品として・輸入・され」(3)と近況を総括した。 今や韓国は日本へ五万人、アメリカで八千人、全世界で十万人余りを送り出す「売春大国」と化している(4)。欧米諸国(米国はネバダ州のみ)も、単純売買春については合法ないしは黙認へ向かう流れである。 ②主導したのは韓国か、在韓米軍か ほぼ全期間を通じ、韓国には売買春を禁じる法が存在したので、形式上は米軍慰安婦の活動は違法であり、彼女たちの苦難は誰の責任かという問題がつきまとう。 だが百二十二人の原告団も米軍の責任は問うてないし、原告の女性たちも多くが「カネを払ってくれるお客さん」というイメージを抱いているようだ。 その分だけ怒りの矛先は女たちから「米軍相手の大型ポン引き(big pimp)」(5)とののしられた韓国政府へ向けられた。 とくに性病にかかった基地村の洋公主たちがモンキーハウスと呼ばれた隔離施設に監禁され、強制治療が終わると無菌を示すタグを付けて釈放される屈辱感が影響したらしい。 政府側にしてみると、駐韓米軍の撤退を引きとめ、休息地を日本に奪われないためにも米兵へのサービスを向上する必要があり、性病検診の強化も「必要悪」と割り切った。 そこで少しでも女性たちの生活条件を改善しようと朴大統領が思いついたのが「基地村浄化対策」だった。悪質な業者の排除、自治会や互助会の結成、英語、美容、衛生等の教養を身につけさせるカルチャーセンター、専用マンションの建設(中止)などである。ところが不足する資金を大統領の特別ファンドから支出するためのサインが、のちに証拠文書とされてしまう。 浄化を名目とした基地村の国家管理は、一九九六年に終わる。駐韓米軍の兵力が減少(約六万→二万余)したこともあって基地村は縮小に向かい、二〇〇〇年代に入ると、「ジューシー・バー」の呼称で移入され、米国務省が人身売買と認定したフィリピン女性の売春が主流となる。最盛期を支えた洋公主たちは引退して、二〇一四年訴訟の告発者となった。 基地村の変遷を研究し、彼女たちを「非公式の外交官」と評した韓国系米人のキャサリン・ムン教授による「冷戦期の同盟者だった韓米両国が推進し組織化したシステム」(6)という折衷的観察が妥当なのかもしれない。 注(1)林博史「韓国における米軍の性管理と性暴力―軍政期から一九五〇年代」=宋連玉他編『軍隊と性暴力』(現代史料出版、二〇一〇)二二八ページ (2)同右二三七ページ (3)前掲『軍隊と性暴力』の山下英愛論文、三四〇―三四三ページ (4)朝鮮日報二〇一三年六月十五日付 (5)ニューヨーク・タイムス、二〇〇九年一月七日付 (6)Catharine Moon,Sex Among Allies(Columbia、,1977)p138

偏見と差別

③米軍と日本軍慰安婦の相似性と相違点 朴裕河、キャサリン・ムン、金貴玉、林博史のような研究者の多くは、米軍のそれが先行する日本軍の慰安所・慰安婦システムをほぼ忠実に継承したものと理解している。 一九四八年に誕生した韓国軍の幹部が旧日本軍や満州国軍の出身で実体験もあり、初期の米軍慰安婦には旧日本軍の慰安婦経験者も少なくなかったから、妥当な観察と言えよう。 終戦後の冷戦期に日本も米軍の占領下にあり、独立回復後も引きつづき在日米軍が駐留するという状況も韓国に似ていた。時系列で追うと、終戦後の一九四五年八月に早くも内務省が業者たちに要請して米軍用の慰安所(RAA)を各地に開設した。四六年一月にGHQの指示で公娼制が廃止され、RAAも閉鎖されたが、代わってパンパンと呼ばれた街頭の私娼が繁昌したり、五六年に売春防止法が成立したりする流れは韓国の例と相似する。 しかしその後は違う路線を歩む。日本の米軍基地の周辺には私娼地域が形成され、米軍は性病対策には苦心したものの韓国と違い、日本の官憲が介入する基地村は生まれなかった。五六年頃から日本は経済成長の波に乗り、韓国に十年以上の差をつけた国力差や女性の地位向上が影響したとも見ることができよう。 いずれにせよ「八〇年代まで慰安婦は韓国の売春婦を指し、日本軍慰安婦は問題にされなかった」(1)と崔碩栄は言う。ましてや両者を比較する視点はなかった。表1は新聞記事に登場する頻度を比較したもので、八〇年代の九件(日本軍用)が九〇年代の前半から六百十六件へ急上昇していることがわかる。米軍(国連軍)用慰安婦は全期間を通じ記事化された例は稀で、「誰にも知られたくないが、誰でも知っている」(2)(李定思)秘密だったことを示唆している。 だが挺対協などエリート女性が集まる女性運動家たちは、旧日本軍用と米軍用慰安婦の類似性は否定する立場をとった。洋公主たちは「韓国社会で下層のなかでも下層の屑」(3)で、純血を失った売春婦として軽侮と嫌悪の的とされていた。 日本人の間では芸妓や売春婦、元慰安婦に対する社会的偏見ははるかに薄く、売春防止法で離職した女性たちの更生や転職は容易だったのとは対照的である。それはアジア女性基金の給付事業に最後まで一人の元日本人慰安婦も名のり出なかった事実で裏付けされる。だが他方では最多数であるにもかかわらず、慰安婦の供給源が朝鮮など植民地の女性だけらしいという誤解も生んだ。 一九九〇年に誕生した挺対協は、結果的に巧妙な戦術を採用する。初期には朝鮮人慰安婦たちの多くは、日本軍に暴力的手段で連行され、慰安所では性奴隷の生活を強いられたというイメージを作りだす。 そして反日ナショナリズムを煽り、世論の支援を固めたあとは戦術を変え、「戦場における女性への暴力」の禁絶をめざすグローバルなフェミニズム運動へ重点を移す。

表1. 東亜日報の”慰安婦”関連記事数
年代 日本軍の慰安婦 米(国連)軍の慰安婦
1951-55 1 17
    56-60 0 36
    61-65 0 56
    66-70 1 118
    71-75 5 39
    76-80 0 20
    81-85 4 9
    86-90 5 8
    91-95 616 3

出所:崔碩栄『韓国人が書いた「反日国家」である本当の理由』(彩図社 2012) 100ページ 注1:林香里「データから見る『慰安婦』問題の国際報道状況」(「朝日新聞の慰安婦報道を検証する第三者委員会報告書」4ページによると、慰安婦に関する報道量は日本の全国紙4紙(1984年4月~2014年9月)が約22,000件、韓国の主要5紙(1990年~2014年)が約14,000件、欧米の10紙(1991年~2014年)が約600件弱とされる。 注2:日本軍の慰安婦は挺身隊という誤った呼び方が一般的になった 在外韓国人組織のロビー活動による米下院やEU諸国の対日非難決議を成立させ、ソウルの日本大使館前やカリフォルニア州グレンデール市などに慰安婦像を次々に建立する。朴裕河教授はこうした二〇〇〇年以降の「世界を相手にした運動で収めた成果は驚くほど」(4)と感嘆する。 日本軍慰安婦たちが「聖女」として崇められ、韓国政府の支援金、日本のアジア女性基金の「償い金」などで豊かな老後を送っているのに対し、米軍慰安婦たちは「汚い女」として偏見と差別の境涯に取り残された。ムンは基地村の女性と支援者たちに日本軍慰安婦たちとの交流を呼びかけたが、特権層となった「あの女たちとは違う」(5)と拒絶された経験を持つ。表2で見当がつくように、基地村の生活条件は日本軍慰安所に比し、より劣悪だったと推察される。 注(1)崔碩栄「韓国人が書いた韓国が反日国家である本当の理由」(彩国社、二〇一二)一〇〇ページ (2)「戦争責任研究」七六号(二〇一二)の李定思論文 (3)Moon op.cit. p37 (4)朴裕河「帝国の慰安婦」(朝日新聞出版、二〇一五)三一一ページ (5)Moon op.cit. p9―10

「第五種補給品」のトラック

米軍慰安婦と交錯する形で存在した韓国軍慰安婦の存在が金貴玉の手で明るみに出たのは二〇〇二年のことだが、一瞬の光芒を見せたのちすぐ暗中に消えたまま現在に及んでいる。

表2. 日韓米軍慰安所の比較
  日本軍 韓国軍 在韓米軍
名称 慰安婦 ウィアンプ 第5種補給品 特殊慰安隊 洋公主
身分 業者が雇用 軍の雇用 業者が雇用
募集広告 拉致も
親の身売り
借金の返済 1~2年  - 長期化
募集の仲介 業者 韓国政府 業者
慰安所の管理 業者と軍 軍直営 業者
性病の防止 兵のサック使用 強制検診 強制検診
性病患者の措置 軍医の治療 - 監禁しての強制治療
利用料金 民族差あり 兵は無料 低料金
利用料金の支払 兵→女→業者 給与 米兵→女→業者
慰安婦のデモ × ×
目的 レイプ防止 性病防止 慰安 慰安 レイプ防止 外貨稼ぎ 性病防圧

若い女性研究者だった金が、その存在に気付いたのは一九九六年、五六年に韓国陸軍本部が作成した朝鮮戦争史シリーズの『後方戦史(人事篇)』を見つけ、核心に迫ったが、相談を受けた「進歩的な男性たちですら、民族主義の名のもとに私の研究成果を身内の恥をさらすものとみなし、日本の極右の弁明の材料となりうると警告した」(1)と彼女は回想している。

表3. 1952年特殊慰安隊実績統計表
部隊別 ソウル第1 ソウル第2 ソウル第3 江陵第1
慰安婦数 19 27 13 30 89






1 3,500 4,580 2,180 6,000 16,260 *1
2 4,110 4,900 1,920 6,500 17,480 *2
3 3,360 5,600 2,280 7,800 19,040
4 2,760 4,400 1,700 8,000 16,860
5 2,900 6,800 2,180 5,950 17,830
6 3,780 5,680 2,400 4,760 16,620
7 3,780 6,000 2,170 7,970 19,920
8 4,000 7,280 2,800 8,000 22,080
9 4,350 4,850 1,680 4,880 15,760
10 3,850 2,160 1,850 3,900 11,760
11 4,100 4,950 1,990 4,200 15,240
12 3,650 4,150 2,140 5,700 15,640
44,240 61,350 25,310 73,660 204,560 *3
1人当たり1日平均*4 6.4 6.2 5.3 6.7 6.15

*備考:計算違いによるもので実際は以下の通り *1=17,430 *2=19,040 *3=204,440 *4=この計算は金貴玉による すでに日本軍慰安婦が日韓両国間の政治問題となっていた時期でもあり、「なぜあれほど軽蔑した日帝の軍慰安婦を、韓国軍は朝鮮の地に作ったのか」(2)という疑問もあって、ためらいの日々がつづいた。 意を決した彼女が発表の場として選んだのは二〇〇二年二月、京都の立命館大学で開催された国際シンポジウムだった。要旨は朝鮮日報、中央日報、朝日新聞(二月二十四日)に報じられ、韓国では隠微な波紋をもたらす。韓国国防部は金の所属大学に「韓国軍慰安婦関連の研究活動を自制せよ」と警告し、軍史編纂研究所に保管されていた前記の『後方戦史』を棚から引きあげ、閲覧を不可能にした。メディアの報道もことごとく姿を消したという(3)。 公式戦史なら本来はあちこちに配付されているはずだが、金は二〇一〇年の論文で一九九七年に閲覧した『後方戦史』以外に「軍慰安婦に関する文書は探し出せていない」と書いている。 また慰安婦にされかかった女性三人には会えたが、二〇一四年までにカミングアウトした元慰安婦はいないので、このテーマに関する金の研究は停頓したままだという(4)。 こうした制約条件の下で、彼女が発掘した『後方戦史』の要旨を紹介することにしたい。白眉は表3に転記した「特殊慰安隊の実績統計表」だろう。前身はすでに朝鮮戦争が始まった五〇年代から存在していたと察せられるが、陸軍本部、厚生監の管轄で軍組織の一部として特殊慰安隊が設置されたのは、戦線が膠着した五一年夏頃らしい。実績統計は五二年分しか残っていないが、ソウル(三個小隊)、江陵(二個小隊)、春川、束草等九カ所のうち掲記されているのは四カ所のみである。 慰安婦数は計八十九名、性サービスの回数は年間約二十万回、すなわち一人の慰安婦が一日に六回以上の「慰安」を提供した計算になる。 だがピーク時に約六十万とされる韓国軍の兵力に比べると、過少にすぎる。金貴玉は軍の構成員だった慰安婦の総数について少なくとも三百人余と推定するが、身分上は私娼にとどまった人数を加えると、数千人のレベルと考えてもまちがいあるまい。 『後方戦史』は特殊慰安隊の解散を休戦後の五四年三月末と明記しているが、金は束草軍慰安所について休戦以降は私娼の集娼地が形成され、関係者の証言から「一九八〇、九〇年代初頭にいたるまでこの私娼たちは一種の軍〈慰安婦〉としての役割を果たすことを強いられていた」(5)と記述する。 そうだとしても、米軍慰安婦が集まる基地村の繁栄にかくれ、影の薄い存在とならざるを得なかった。 研究上は盲点だらけとなってしまったのを悔やみつづける金は、韓国軍慰安婦について今も残る疑問を次のように列挙している(6)。 ①発案者は誰か―旧日本軍の経験があるはずの幹部と推定するが、詳細は不明。 ②法的裏づけがあったのか―韓国陸軍の成員で給料を払っていたのは事実だが、『後方戦史』には「第五種補給品」という隠語(?)を使用している点もあり、法律上の根拠は不明のまま。 ③慰安婦たちの素姓―旧日本軍の慰安婦(数千人?)、難民、北朝鮮への協力者、戦争未亡人、ソウルの私娼街からの連行、と調達源は多様だったらしいが、募集の実態は不明。 韓国軍の情報非公開方針のせいか不明だらけだったが、金はそれを補うため元将軍たちの回想録やインタビューから、傍証材料を引きだしている。数例を要約して紹介したい(7)。 ▽蔡命新(のちベトナム派遣軍総司令官) 慰安所には固定式のほか、女性たちを前線に運ぶ移動式があった。それによりすべての部隊が利用可能となった。慰安所への出入はチケット制だが、勇敢に戦い功績をあげた順序で配分された。 ▽車圭憲 五二年三月、女子慰安隊が軍用トラックに乗って部隊に送りこまれた。彼女たちは二十四人用の野戦用テントの中をベニヤ板で仕切り、野戦ベッドを使った。兵士たちは列を作って順番を待った。 ▽金喜午 ある日の朝、「第五種補給品」(軍の補給品は一~四種まで)が到着、わが中隊にも昼間の八時間という制約で六人の慰安婦があてがわれた。 さて今も暗中に放置されている韓国軍慰安婦問題について、金貴玉は「おくればせながら韓国政府は韓国軍慰安所制度を設け運営した事実を認め……女性たちに謝罪し適切な賠償をしなければならない」(8)と主張しつつも、原型を作ったゆえに日本にも間接的責任がある、と付言していることを付け加えておきたい。 注(1)金貴玉「朝鮮戦争時の韓国軍〈慰安婦〉制度について」=前述宋連玉他編「軍隊と性暴力」に収録。二八六ページ。 (2)同右 (3)「SAPIO」二〇一五年六月号の藤原修平論稿 (4)「慰安婦問題を/から考える」(岩波書店、二〇一四)の金貴玉論文(以後は二〇一四年論文と略称)三九ページ (5)金貴玉の二〇一〇年論文、二九一ページ (6)徐勝編「東アジアの冷戦と国家テロリズム」(御茶の水書房、二〇〇四)の金貴玉論文(以降は二〇〇四年論文と略称)三六二―三六三ページ (7)同右三六〇―三六三ページ (8)金貴玉の二〇一四年論文、四六ページ

ベトナム戦争の「トルコ風呂」

ところで韓国を主役とする慰安婦事情の三点セットで、最後に取り上げたいのは、ベトナム戦争中に韓国軍がベトナム人女性を集めて運営した慰安所に関するスクープ報道である。 アメリカの国立公文書館(NARA)で証拠となる米軍の関係公文書を発掘したのは、日本の有力な民間テレビ局であるTBSテレビのワシントン支局長、山口敬之であった。 山口は二〇一三年九月の赴任前にある外交関係者から「ベトナム戦争当時、韓国軍が南ベトナム各地で慰安所を経営していたという未確認の情報がある」と聞いた。そこで米側の資料等で裏付けを取れれば、「朴大統領と韓国国民が頭を冷やし……事態は変わるかもしれない」(1)と考え、一年余かけた調査の過程で、一四年七月になって米軍司令部が「韓国兵専用慰安所」の存在に言及した書簡を発見した。 ところがTBS本社がなぜか報道も番組化も拒否したため、悩んだ山口は成果を「週刊文春」二〇一五年四月二日号(三月二十六日発売)に手記の形で掲載する。文春スタッフもベトナムでの現地取材で「トルコ風呂」と呼ばれていた慰安所跡を探し出し、現地市民からの取材情報で補足している。 決め手となった米軍司令部から「ベトナム派遣韓国軍最高司令官蔡命新中将」に宛てた書簡は、日付が欠けているが、一九六九年一月から四月の間に書かれたものと推定される。 書簡の主題は韓国兵と米兵の一部による、米軍の軍需物資の横流しや闇ドル取引などで経済犯罪の摘発問題で、容疑者である韓国軍将校六名、米兵三名の名を通報していた。ついでにその舞台になったのがサイゴン市中心部にあった「トルコ風呂(Turkish Bath)」で、「この施設が韓国軍の韓国兵のための慰安所」と断定するが米兵の利用も黙認され、その場合はベトナム人売春婦の値段が、一晩で四千五百ピアストル(三十八USドル)だったという。 裏付けとなる米軍資料がもう少し欲しいところだが、山口は不足分をベトナム参戦経験のあるアメリカ人からのヒアリングで補足した。「トルコ風呂は『射精パーラー』(Steam and Crean Parlor)と呼ばれていた」とか「トルコ風呂で働いているのはほとんどが二十歳未満の農村部出身の少女だった」とか「サイゴン市内の別の場所には、これよりもさらに大きい慰安所があった。目的は韓国兵のレイプと性病の防止だったと思われる」のような回想談である。 ベトナムで取材した「週刊文春」のスタッフも「女に飢えた韓国兵はジープやトラックで乗りつけ、大騒ぎをしながら先を争うようにトルコ風呂に押しよせるのです」のような目撃談を紹介した。 トルコ風呂がベトナム人女性の所有家屋を韓国人男性(業者?)の資金で開業したものだとか、ダナンなどの地方都市にも韓国兵専用の慰安所があったという証言もあった。詳細な研究は今後の調査、とくに韓国軍の記録発掘を待ちたいところだが、とりあえずは山口レポートに対する各方面の反応を見ておきたい。 まず韓国の政府と主要メディアが沈黙を守ったなかで、ハンギョレ新聞だけは要旨を伝え、「腹立たしくはあるが反論しにくい」(2)と指摘し、韓国政府は「調査と後続措置に乗り出さなければならない」と促がした。しかし今のところ、韓国政府にはその気はないらしい。折からワシントンを訪問中の朴大統領は、知ってか知らずか、ペロシ米下院院内総務へ「日本軍慰安婦問題の解決を急ぐ必要がある」と強調していた。 そのアメリカの対応は微妙だった。まず、アジア関係の情報と論評を扱っているオンラインサイトの主宰者クリス・ネルソンは、異例の早さで三月二十六日に山口論文のほぼ全文の英訳を掲載した。そして「韓国側の偽善と二重基準」を厳しく批判して「この報道で日韓の歴史戦争はより醜いもの(uglier)になろう」(3)と予告する。 同じ日の国務省記者会見で、山口の調査報道を知っているかという質問が出た。ラトケ報道官は「知っている」と答えた。「この事例は人身売買だが、調査する意図はないか」「この問題で韓国政府と協議するか」という質問も出たが、「韓国疲れ(Koreafatigue)」していたのか、報道官は確かな答えは与えなかった(4)。アメリカのベトナム派遣軍がやはりベトナム女性の慰安所を運営した故事を意識しての対応だったかもしれない(5)。 こうした動きに反発したのは親韓派歴史家のアレキシス・ダデン教授(コネチカット大学)である。彼女は三月二十七日のネルソン・レポートに「韓国も同じことをしていたという主張は日本の悪事を帳消しにはしない」と噛みついている。 次は日本の対応ぶりだが、ネルソンは日本政府の高官が訪ねてきて「山口論文の出現により、日本の保守派は韓国が女性の人権に関して残酷で偽善的だったと知り、日本軍の慰安婦問題で責めたてる資格を失ったと主張するだろう」と語ったそうである。 当然の感想と言えようが、不可解なのはスクープの功労者に降りかかった災厄だ。TBS本社は、記者一筋で生きてきた山口ワシントン支局長を四月二十三日付で解任したうえ、出勤停止処分十五日の懲罰に付し、営業局のローカルタイム営業部へ左遷した。 山口がフェイスブックで「会社が私の取材成果も報道しなかった真意は、私にはわからない」「知らせるべきニュースと考えて踏み切りました」ことに対し、賞讃の声が高い。(6)その一方で、TBSは「ダデンのお仲間か」と誤認され非難されてもしかたがあるまい。 六月九日付のハンギョレ新聞(日本語版)によると、大邱に韓国で四番目の日本軍慰安婦歴史館が八月十五日に開館するそうである。経費は二〇一〇年に死去した元慰安婦キム・スンアクが、遺言で寄贈した五百五十万円に各方面からの寄付金を加えて賄うとのこと。 注(1)山口敬之「歴史的スクープ 韓国軍にベトナム人慰安婦がいた」(「週刊文春」二〇一五年四月二日号、以後は「山口論文」と略称する) (2)ハンギョレ新聞(日本語版)二〇一五年四月二十五日 (3)ネルソン・レポート、二〇一五年三月二十六日 (4)「週刊文春」二〇一五年四月九日号の古森義久レポート (5)ベトナム戦における米軍の慰安所事情については、スーザン・ブラウンミラー、シンシア・エンローの著作を引用した秦郁彦「慰安婦と戦場の性」(新潮選書、一九九九)一七一―一七二ページを参照 (6)J―CASTニュース、二〇一五年四月二十六日、「夕刊フジ」二〇一五年四月二十五日