鄭 大均
首都大学東京名誉教授
日本戦略研究フォーラム季報 Vol.69 2016年6月
二つの欲望
今は亡き人類学者のクリフォード・ギアーツ(Clifford Geertz) が言っていたことだが、第二次世界大戦後に独立した「新興国」(new state)に生きる人々には、2つの欲望(動機)に同時に駆り立てられる状況があって、両者の間に良い緊張関係が維持されるとき国家は発展の推進力を得るが、2つの欲望は屡々対立するものであり、それは国家の発展を妨げる最大の障害になるものでもある。
2つの欲望とは何か。一方が国際社会で重んじられる存在、名のある存在になりたいという欲望であるとしたら、他方は有能で活力ある現代国家を建設したいという欲望である。一方が一人前の存在として認知されたいという自己主張であるとしたら、他方は国民の生活水準を向上させ、効果的な政治体制を作り、社会正義を拡大したいというプラクティカルな欲望であり、本稿では前者を「自尊の欲望」、後者を「実利の欲望」と呼んでおくことにする。 「統合的革命」(『文化の解釈学』岩波現代選書所収、1987年)と題するこの論考で、ギアーツが念頭においていたのは多民族、多言語、多宗教のアジア・アフリカ諸国であり、2つの欲望は、2つの理由で深刻で慢性的な緊張関係を生みだすようになるという。1つは人々の自己意識が血縁や人種、地域、言語、地域、宗教といった原初的感情(primordial sentiment)と深く結びついているからであり、もう1つは集団の目的を実現するために、独立国家の重要性が増しているからである。ギアーツの論考の初出は1963 年である。アジアやアフリカに多くの独立国家が誕生し、厳しい現実に向き合わざるを得なくなかった時期に書かれたものである。
この論考に筆者が接したのは80年代末、韓国で暮らしているときのことで、「原初的感情」という言葉が心に響いた。それを手がかりに何か面白い韓国論が書けそうな気がしたが、果たせないまま、時が過ぎ、やがて論考のことも忘れていた。
今、改めて論考を読んで思うのは、多くの新興国とはあまりに異質の韓国の民族的、言語的均質性とともに、2つの欲望間によい緊張関係を維持し、それをこの国の発展の推進力とした政治指導者たちの賢明さである。有能で活力ある現代国家は自然のままにできあがるものではない。多民族、多言語、多宗教のアジア・アフリカ諸国の政治指導者からしたら、韓国の状況はうらやむべきものであるかも知れない。大統領の言語を理解できない国民が誰もいないという状況を普通の新興国に期待することができるだろうか。どの言語を国語や公用語として選択するかは、独立時に多くの新興国を悩ませた問題であり、またどの言語が選択されても、それはある集団にとっては「異邦人」の言語を意味していた。しかし、だからといって、韓国の政治指導者に何の試練もなかったというわけではない。そこには文化や伝統との葛藤があり、政敵達との葛藤があり、一見恵まれているかに見えた条件も、実は禍の元になり得る。
原初的感情との結びつき
その韓国にもやがて変化がやってくる。変化を促したのは新興国によく見られる「人心の離反」とはあべこべの「人心の一致」という状況で、これは民族的均質性や言語的均質性を特徴とする国に「原初的感情」が提唱されたときに何が起きるのかを教えてくれる事例である。
では、原初的感情の提唱が多くの新興国では「人心の離反」を生み出すのに、何故韓国では、「人心の一致」が生み出されるのか。韓国では、国民国家のアイデンティティとして原初的感情が提唱されても、それがもう一つの集団の原初的感情と競合するとか、対立するという状況が考えにくいからである。言い換えると、多くの新興国において、原初的感情の提唱が国民としての感覚との間に葛藤を生み出し、荒廃をもたらすという失敗の経験が、やがては自国のアイデンティティとして、人種や部族や言語や宗教などを公然と掲げることを躊躇させるとしたら、そのような失敗が考えにくい韓国においては寧ろ原初的感情の提唱が選好されるようになるのである。原初的感情の提唱こそは「人心の一致」を生み出す方法であり、だから政治家もメディアもそれを利用しようとするのである。
隣国日本の状況は、これとは似て非なるものである。日本も民族的均質性や言語的均質性を特徴とする国であり、また日本人に民族的ナルシシズムがないわけではない。しかし自国のアイデンティティを語るときに原初的感情を持ち出すことは戦後の日本においてはタブーであり、それが原初的感情に対する抑止力として機能するのである。
2つの国の違いは、歴史的、文化的要因を除外すれば、両国間にある小さな条件の差に由来するものかも知れない。日本には少数ではあれ、エスニック・グループや外国人集団がいて、その存在がこの国のナショナリズムを牽制し、批判する役割を担う。沖縄人やアイヌの存在も重要であるが、戦後の日本においては、在日韓国・朝鮮人がナショナリズム批判者として果たした役割が大きいであろう。この状況に比べると、韓国では、「民族」のナルシシズムが語られても、それによって、自己の尊厳が傷つけられたと感じ、それに異議申し立てを試みる集団が存在しないのである。
一卵性双生児の片割れである北朝鮮との比較も忘れるわけにいかないが、こちらは早くから原初的感情が「自尊の欲望」と結託し、世界でも類例を見ない自己愛的国家を作りあげた例である。そんな国に比べると、韓国ナショナリズムには健全さがあり、自己抑制的な性格があると言える。しかしそれでよしとするわけにはいかない。かつて、2つの欲望間に見てとれたよい緊張関係は今や馴れ合いの関係と化し、この国や隣国の将来に不安を投げかけているからである。
重要と思われるのは3点であろう。第1に、韓国人の自己意識には、「血縁」や「民族」といった原初的感情との結びつきが強くあり、それはとりわけ「反日」を媒介にして喚起されやすいものであるということ。第2 に、民族的均質性を特徴とする韓国では原初的感情が公的に提唱されても、それによって自己の尊厳が傷つけられたと感じる集団が存在しないということ。そして第3に、原初的感情は通常は国家を単位にして語られるが、時には北朝鮮をも含む「民族」を単位にして語られるものであって、その傾向は近年増大しているということである。
国家アイデンティティの再定義
では、韓国にはどのような変化が起きているというのか。ここでは、「反共ナショナリズム」から「民族ナショナリズム」の国へという、国家アイデンティティの再定義について記しておきたい。
「反共ナショナリズム」が北朝鮮との異質性を重視するとしたら、「民族ナショナリズム」は寧ろその同質性を重視する。前者が「民族」(nation)より「国家」(state)を重視するとしたら、後者は「国家」より「民族」を重視する態度であり、民族と国家は一致すべきであると考える。「反共ナショナリズム」が北に対する南の優越性、つまり民主主義や法治主義や思想・信条の自由を重視するとしたら、「民族ナショナリズム」が重視するのは国家の「正統性」であり、日本統治期に抗日武装闘争を展開した北朝鮮には韓国よりも「民族」としての「正統性」があり、また韓米同盟はアメリカによる韓国の主権侵害であり、それは民族分断を固定化すると考える思考である。
「反共ナショナリズム」と「民族ナショナリズム」のせめぎあいは韓国の歴史であり、長く優位の立場にあったのは「反共ナショナリズム」の側である。「反共ナショナリズム」は朝鮮戦争を経験した世代に広く共有されるイデオロギーであり、それは共産主義への対抗が最優先された冷戦時代には規範化されたイデオロギーであったが、やがて韓国が豊な国になり、国力が増大すると、北朝鮮に対する脅威の感覚は急激に減退し、「反共ナショナリズム」は動員力を失うようになる。93年、大統領に就任した金泳三がその就任演説で述べた「いかなる同盟国、思想、理念よりも民族が重要である」のフレーズには、「民族ナショナリズム」の時代の幕開けを伝える響きがある。しかし新しい時代が到来したといっても、古い時代の眺めや価値観がきれいに消えてなくなるわけではない。2つのナショナリズムのせめぎあいは今日の韓国にも持ちこされているのだが、かつての「反共ナショナリズム」が反共法や反共主義によって庇護されていたように、今日の「民族ナショナリズム」にも新しい時代の規範によって庇護されているところがあるのは注目に値する。「反共ナショナリズム」の動きは今日では民主化に対する抵抗と見做され、ひどくアナクロで、非道徳的な印象すら与えるのである。
「反共ナショナリズム」の時代の韓国は軍人跋扈の時代であり、その社会や文化に人々が批判的な目をもつのはいい。しかしそれでも、「反共ナショナリズム」には、韓国人のナショナリズムにある種のハンデを与えることによって、その原初的感情が燃えさかることを抑制し、新興国として出発した韓国が、合理的で活力ある現代国家として成長することを可能にした功績があることは銘記されてよい。
新しい時代は、「反共ナショナリズム」の時代には維持されていた「反共」と「反日」の関係に変化をもたらしたようである。「反共」の後退は「反日」を活性化させるが、それは日本に対する敵意や憎悪を喚起するものであるから、日本との関係は当然のことながら、悪化する。「反共ナショナリズム」には「反日」を抑止する機能があったのであり、それは韓国が原初的紐帯の感情を刺激しない方法でもあった。
振り返ると、韓国は、長い間、反日を標榜しつつも活力ある現代国家建設のために日本をうまく利用してきた国であった。韓国はその発展や繁栄に必要なモノやヒトや技術を日本から取り入れることに余念がなかったのであり、また日本人もそれに協力した。
そんな韓国が反日を鮮明にしたのは、2005年3月の盧武鉉大統領による対日歴史戦(対日外交戦争)の宣言であろうか。同宣言で、大統領は「侵略と支配の歴史を正当化し、再び覇権主義を貫こうとする(日本の)意図をこれ以上放置することはできない」と述べ、巨費を投じて東北アジア歴史財団を設置する一方、「竹島」や「慰安婦」をテーマに日本非難の外交戦を開始し、それはその後の韓国政権にも継承されている。
韓国について思うこと
近年の韓国に見てとれるのは、日韓併合期(1910~45)の「悪意」や「悪政」が学校教科書で教えられ、博物館や記念館に展示され、テレビで「再現」される過程で、ある種のリアリティを獲得するという状況であるが、これは韓国人にとって幸福な状況なのだろうか。
否である。韓国の歴史は今やあまりにも政治的、集団的で、敵と戦うことばかりに情熱を傾けていて、自分と戦うことをすっかり忘れている。これが人間を幸福にするわけがない。
隣国の国民心理に無頓着という態度も度を過ぎている。日韓とは「加害者と被害者」の関係であり、従って告発・糾弾するは我らであり、反省すべきは日本人であるというのが近年の韓国のメディアや政治家の言い分のようであるが、それを自明のことと考える日本人は今や少数派である。隣国に怒る日本人が少なくないのだということを韓国メディアは国民にきちんと伝える義務がある。怒る日本人というと、すぐ「嫌韓日本人」を取り上げるのが近年の韓国の悪癖であるが、それは事実の矮小化というものであろう。
日頃、韓国について思うことを2つだけ記して終えたい。第1に、日本による朝鮮統治が韓国人に屈辱の感情を与えたのは事実であるとしても、戦後の韓国はその感情を強壮剤にして復興を遂げ、豊かな国を作り上げたのであり、それに日本も協力した。これは、かつての侵略者と被侵略者が戦後に達成した類たぐい稀まれなアチーブメントであり、両国が共有できる歴史認識にこれ以上のものがあるのだろうか。
第2に、韓国が主張する無垢な被害者や果敢な抵抗者という歴史認識は、韓国という国を益々明るい国にすると同時に、益々陰影の欠けた国にしている。歴史を、集団的、政治的に考える韓国人を見ていると、一卵性双生児の北朝鮮のことをつい考えてしまう。歴史を語るとき、あの個性的な韓国人はどこに行ってしまったのか。