McGraw-Hill社への訂正勧告

2015年3月17日
19人の日本人歴史家有志

前 文

2015年2月11日の産経新聞は、米国の公立高校等で使われている世界史の教科書に、旧日本軍による慰安婦強制連行など事実と異なる記述がある問題で、昨年11月と12月に日本の外務省が出版元のマグロウヒル社と執筆者のジーグラー教授(ハワイ大学)に訂正を申し入れたことを報道した。2月7日の東亜日報、2月10日のワシントン・ポストも同様の記事を掲載した。

それが契機となって、1月2日の全米歴史学会の年次大会にさいし、19人の歴史家有志が、アレクシス・ダデン教授(コネティカット大学)がとりまとめ役で、吉見義明教授に代表される「日本の歴史家たちと連帯」して、出版社と執筆者を日本政府の「検閲」から守ろうと呼びかける声明を作成、学会の月報3月号(3月2日発行)に掲載された(別添資料1参照)。

われわれは外務省が申し入れた内容は知らされていないが、マグロウヒル社の教科書『伝統と遭遇』の第5版853ページで「慰安婦」と題した記述を検分すると、多くの不適切な箇所を発見した。とりあえず、下記のような8箇所の事実誤認部分(①~⑧)に限定して、理由を付し、マグロウヒル社が自発的に是正されるよう勧告するものである。

教科書のコラムのテキスト

以下に、マグロウヒル社の教科書の書誌情報と、コラム「慰安婦」の全文を掲載する。続いて、文中に①から⑧まで下線を引いた箇所について、コメントで問題点を指摘した

J.H.Bentley and Herbert F.Ziegler, Traditions & Encounters: A Global Perspective on the Past, McGraw-Hill, 2011, p.853.

Comfort Women Women's experiences in war were not always ennobling or empowering. The Japanese army ①forcibly recruited, conscripted, and dragooned ②as many as two hundred thousand womenage fourteen to twenty to serve in military brothels, called "comfort houses" or "consolation centers". The army presented the women to the troops ④as a gift from the emperor, and the women came from Japanese colonies such as Korea, Taiwan, and Manchuria and from occupied territories in the Philippines and elsewhere in southeast Asia. The ⑤majority of the women came from Korea and China.

Once forced into this imperial prostitution service, the "comfort women" catered to ⑥between twenty and thirty men each day. Stationed in war zones, the women often confronted ⑦the same risks as soldiers, and many became casualties of war. Others were killed by Japanese soldiers, especially if they tried to escape or contracted venereal diseases. At the end of the war, soldiers

massacred large numbers of comfort women to cover up the operation. The impetus behind the establishment of comfort houses for Japanese soldiers came from the horrors of Nanjing, where the mass rape of Chinese women had taken place. In trying to avoid such atrocities, the Japanese army created another horror of war. Comfort women who survived the war experienced deep shame and hid their past or faced shunning by their families. They found little comfort or peace after the war.

コメント

① forcibly recruited, conscripted 19人の米歴史家の声明で、連帯する日本の歴史家たちの中でただ一人実名で言及されている吉見義明は、著書の中で、慰安婦のうちの「最多は(コリアン・ブローカーに)だまされて(deceived)」慰安婦になった、と記している(Yoshimi Yoshiaki, Comfort Women, Columbia University Press, 2000, p.103)。

吉見は日本のテレビの討論番組でも、「朝鮮半島における強制連行の証拠はない」と述べている。

朝鮮半島における慰安婦の調達では、当事者の多くは朝鮮人が占めており、関係者の相互関係の全体像は、次の模式図で表される。

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関連図Clipped

 

 

 

② as many as two hundred thousand women この数字は過大すぎる。秦郁彦は⑤で示したように、約2万と推計、吉見義明は「最低でも5万人前後」(『歴史学研究』845号、2008年、p.4)と記述している。また、⑥の解説をも参照せよ。

③ age fourteen to twenty 1945年フィリピンで米軍の捕虜になった慰安婦20人(日本人11,朝鮮人6,台湾人3)の調査カードによると、うち19人が20歳以上である。(US National Archives, RG 389-PMG)。twenty は twenties と修正すべきである。

④ as a gift from the emperor 教科書としては、国家元首(national head)に対する、あまりに非礼な(too impolite)表現である。

⑤ majority of the women came from Korea and China 秦の推計では、全慰安婦数は約2万人で、そのうち最も多数を占めるのは日本人の約8000人、朝鮮人はその半数の約4000人、Chinese and others は約8000人であった。

⑥ between twenty and thirty men each day ②と⑥は、きわめて誇大な数字であり、自己矛盾(self-contradiction)の関係にある。「20万人の慰安婦」(②)が「毎日20人~30人の男性を相手にした」(⑥)とすれば、日本軍は毎日400万回~600万回の性的奉仕を調達したことになる。他方、1943年の日本陸軍のoverseas兵力(strength)は約100万であった。教科書に従えば、彼らは全員が「毎日、4回~6回」慰安所にかよったことになる。戦闘する暇も、まともに生活する暇さえもなくなる。

⑦ the same risks as soldiers 慰安婦と看護婦は戦闘地域ではない後方の安全な場所で勤務していた。前線 front line で兵を慰安婦の護衛に割く余裕はなかった。

⑧ massacred large numbers of comfort women 根拠史料は何なのか。もしそういうことがあれば、東京裁判や各地のBC級軍事裁判で裁かれているはずであるが、そういう記録はない。何人を、いつ、どこで殺害したか、証拠がなければ教科書に書くことは適切でない。秦は、慰安婦の死亡率を日赤看護婦(26,295人)の死亡率4.2%とほぼ同じと推定した。(秦『慰安婦と戦場の性』p406)

19人の日本人歴史家有志

秦  郁彦  Ikuhiko HATA  日本大学

明石 陽至  Yohji AKASHI   南山大学

麻田 貞雄  Sadao ASADA  同志社大学

鄭   大均  Daekyun CHUNG 首都大学東京

藤岡 信勝  Nobukatsu FUJIOKA  拓殖大学

古田 博司  Hiroshi  FURUTA   筑波大学

芳賀  徹  Tohru HAGA 東京大学

長谷川三千子  Michiko HASEGAWA  埼玉大学

平川 祐弘  Sukehiro HIRAKAWA  東京大学

百地   章  Akira MOMOCHI  日本大学

中西 輝政  Terumasa NAKANISHI  京都大学

西岡  力  Tsutomu NISHIOKA  東京基督教大学

呉  善花  Sonfa  OH   拓殖大学

大原 康男  Yasuo  OHHARA  国学院大学

酒井 信彦  Nobuhiko SAKAI  東京大学

島田 洋一  Yohichi  SHIMADA  福井県立大学

高橋 久志  Hisashi TAKAHASHI 上智大学

高橋 史朗  Shiroh TAKAHASHI  明星大学

山下 英次  Eiji YAMASHITA  大阪市立大学

 

添付資料1

アメリカ歴史学会発行『Perspectives on History』2015年3月号掲載

日本の歴史家たちと連帯する

Alexis Dudden, March 2015

編集者へ

日本政府は最近、第二次世界大戦中に日本帝国陸軍の野蛮な性的搾取制度のもとで呻吟した「慰安婦」についての国内外の歴史教科書の記述を削除させようとしているが、われわれは歴史家として落胆の思いをここに表明する。

歴史家たちは、搾取された女性の数が数万なのか数十万なのか、その調達に関して軍はどのような役割をはたしたのか、論争を続けている。だが、歴史家・吉見義明の日本政府公文書館での綿密な調査と、アジア全域にわたる生存者の証言によって、国営性奴隷制というべきシステムの本質的な特徴が議論の余地無く明らかになっている。女性達の多くは、みずからの意思に反して徴用され、移動の自由のない前線の駐屯地に連行された。生存者たちは、軍人に強姦され、逃亡しようとして殴打されたことを生々しく語っている。

安倍晋三首相の現政権は、愛国心教育を推進する努力の一環として、慰安婦についての確立した歴史に公然と異議を唱え、教科書の記述を削除させようとしている。保守系の政治家の中には、国家の責任を否定するために法律的議論を持ち出す者もいれば、生き残りの慰安婦を侮辱する者もいる。右翼の過激派は、慰安婦制度と犠牲者の話を記録する作業に従事するジャーナリストや学者を脅迫し威嚇している。

みずからの利益に合わせて歴史を語ろうとするのは、日本政府だけではないことをわれわれは認める。アメリカ合衆国では、州や地方の教育委員会が、例えば、アフリカ系アメリカ人奴隷制を曖昧にするように教科書を書きかえようとしたり、ベトナム戦争についての「非愛国的」記述を削除しようとしたりしている。2014年、ロシアでは、第二次世界大戦中のソ連の行動について政府が誤情報と認定したものを拡散すると犯罪とされる法律が成立した。今年はアルメニア人大虐殺事件100周年にあたり、トルコ政府に責任があると主張したトルコ市民は誰でも牢屋に送られることになった。しかしながら、日本政府は、国内外の歴史家の著作を直接狙い撃ちしているのである。

2014年11月7日、日本の外務省はニューヨーク総領事に指示し、マグロウヒル社に対して、ハーバート・ジーグラーとジェリー・ベントリーの二人の歴史家が書いた同社の世界史教科書『伝統と遭遇-過去へのグローバルなまなざし』の中にある慰安婦の記述を訂正するよう求めた。

2015年1月15日、ウオールストリートジャーナルは、昨年12月に日本の外交官とマグロウヒル社の代表との間で行われた会合について報道した。二つのパラグラフの削除を求める日本政府の要望に対して、学者たちは慰安婦に関する史実を確立していると述べて、同社はこれを拒否した。

2015年1月29日、さらにニューヨークタイムスは、日本の首相が国会審議の場で、直接、件の教科書を問題として取り上げ、政府が「なすべき修正に失敗した」ことを知って「衝撃を受けた」と語ったと報道した。

われわれは出版社を応援するとともに、いかなる政府も歴史を検閲する権利を持たないとする著者ハーバート・ジーグラーの見解に同意する。われわれは、日本だけでなくどこの地域であろうと、第二次世界大戦の慰安婦問題その他の暴虐行為に関する事実を明るみに出そうと働いている多くの歴史家たちと連帯する。

われわれが歴史を研究し、歴史を書くのは、過去から学ぶためである。従って、われわれは、出版社や歴史家に圧力をかけ、その研究成果を政治的目的のために書き変えさせようとする国家や特定の利益集団の動きに反対するものである。

ジェレミー・エイデルマン Jeremy Adelman プリンストン大学

W・ジェレイニ・コブ     W. Jelani Cobb コネティカット大学

アレクシス・ダデン     Alexis Dudden   コネティカット大学

サビーヌ・フラスタック Sabine Fruhstuck カリフォルニア大学 サンタ・バーバラ校

シェルドン・ギャロン   Sheldon Garon プリンストン大学

キャロル・グラック   Carol Gluck コロンビア大学

マーク・ヒーリー   Mark Healey コネティカット大学

ミリアム・キングバーグ Miriam Kingsberg   コロラド大学

ニコライ・コポソヴ Nikolay Koposov ジョージア工科大学

ピーター・ カツニック Peter Kuznick アメリカン大学

パトリック・マニング   Patric Manning ピッツバーグ大学

デヴィン・ペンダス   Devin Pendas   ボストン大学

マーク・セルデン Mark Selden コーネル大学

フランジスカ・セラフィム Franziska Seraphim ボストン大学

ステファン・タナカ   Stefan Tanaka カリフォルニア大学 サンディエゴ校

ジェフリー・ワッサーストム Jeffrey Wasserstorm カリフォルニア大学 アーヴァイン校

テオドール・ジュン・ヨー Theodore Jun Yoo   ハワイ大学

ハーバート・ジーグラー   Herbert Ziegler ハワイ大学

編集者による注記 このアピールは、2015年1月2日、ニューヨーク市におけるアメリカ歴史学会年次大会の折りに開かれた非公式の会合に由来するものである。

(藤岡信勝訳)

 添付資料2

1944年10月1日

アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属

アメリカ戦時情報局心理作戦班

APO689

日本人捕虜尋問報告 第49号

尋問場所レド捕虜収容所

尋問期間1944年8月20日〜9月10日

報告年月日1944年10月1日

報告者T/3 アレックス・ヨリチ

捕虜朝鮮人慰安婦20名

捕獲年月日1944年8月10日

収容所到着年月日1944年8月15日

はじめに

この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。

この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。

「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。

徴  集

1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地——シンガポール——における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。

これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。

これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここからビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの四つがミッチナ付近に到達した。それらの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。

性  向

尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。

生活および労働の状況

ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。

彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

料金制度

慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用どの高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。

1兵午前10時〜午後5時1円50銭20分〜30分

2下士官午後5時〜午後9時3円30分〜40分

3将校午後9時〜午前0時5円30分〜40分

以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで引き下げた。

利用日割り当て表

兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員二名が、隊員の確認のために慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。

日曜日——第18師団司令部。

月曜日——騎兵隊

火曜日——工兵隊

水曜日——休業日、定例健康診断

木曜日——衛生隊

金曜日——山砲兵隊

土曜日——輜重隊

将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。

兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。

報酬および生活状態

「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。

1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。

さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。

日本の軍人に対する反応

慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさしい人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させることができなかったという理由から自決した。

兵士たちの反応

慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。

すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。

しばしば兵士たちは、故郷からの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。

軍事情勢に対する反応

慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。

「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった。」

「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」

ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。

慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。

退却および捕獲

「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、7月31日の夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む63名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは8月4日までそこにいたが、しかし、一度もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、8月7日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばらになってしまった。慰安婦たちは3時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、8月10日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちによって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。

宣  伝

慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことはあったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。一人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。

要  望

慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。

彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されていると盂家に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。

付録A

以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。

名  年齢   住 所

1 「S」 21歳 慶尚南道晋州

2 「K」 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕

3 「P」 26歳 慶尚南道晋州

4 「C」 21歳 慶尚北道大邱

5 「C」 27歳 慶尚南道晋州

6 「K」 25歳 慶尚北道大邱

7 「K」 19歳 慶尚北道大邱

8 「K」 25歳 慶尚南道釜山

9 「K」 21歳 慶尚南道クンボク

(ママ)

10 「K」 22歳 慶尚南道大邱

11 「K」 26歳 慶尚南道晋州

12 「P」 27歳 慶尚南道晋州

(ママ)

13 「C」 21歳 慶尚南道慶山郡〔以下略〕

14 「K」 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕

15 「Y」 31歳 平安南道平壌

16 「O」 20歳 平安南道平壌

17 「K」 20歳 京畿道京城

18 「H」 21歳 京畿道京城

19 「O」 20歳 慶尚北道大邱

20 「K」 21歳 全羅南道光州

日本人民間人

1  キタムラトミコ 38歳 京畿道京城

2  キタムラエイブン 41歳 京畿道京城

出典:吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店pp.439-452

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添付資料3  Click to enlarge

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